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那須の昔ばなし

殺生石と九尾の狐

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 大昔のことです。
全身が小牛ほどの大きさで、顔の部分が白く、金色の毛におおわれて輝き、更に九本ものふさふさとした尾をつけた狐がいました。
この狐は、ありとあらゆる悪を身につけ、しかも不思議な術を持ち合わせ、この世のすべてをわがものにするために、男を妖しい力で、婦人や子供はむごい方法で滅ぼし、魔王となって世界を征することに全力を尽くしていたのです。
美しい女に化けた九尾の狐は、中国やインドの王様をまどわせ、悪業の限りを尽くして日本に上陸、”玉藻の前”という美女に化けて宮中にもぐり込みました。
「おゝ何という美しさじゃ。」 玉藻の前をひと目みた鳥羽院は、その美しさにすっかり魂を奪われ片ときもそばから離さないようになってしまいました。

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 元永二年の夏のある夜のことです。
鳥羽院は、玉藻の前に高い位を授けると共に、その祝の会を高陽殿で催しました。
高陽殿がいよいよ盛り上がってきたとき、突如として雨が降り出し、そのざわめきの中を、生あたたかい風が走り抜け灯を消し去ったのです。
「キャァッ!」
その恐ろしさに悲鳴をあげる者、立ちすくむ者、外へ逃げ出そうとする者が交錯するうちに、玉藻の前の全身から蛍火がうっすらと発せられ、次第に灯は大きく広がり、そして光は怪獣の姿を夜空に写し出すではありませんか。高陽殿に集まった人々は、その一瞬の出来事に自分の目を疑い、無気味さからか、ただぼう然とその場に立ちすくんでいるだけでした。
その夜から、鳥羽院は重い病気にとりつかれ、床に伏してしまったのです。院には国中の名医が集められ必死の治療をほどこしたが、その病名さえわからず、宮中のなげきは深まるばかりでした。

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 京都に陰陽師として名高い阿部泰成という占い師がいました。宮中での変事を知った泰成は、祝宴の夜の一瞬の光から玉藻の前を院から遠ざけるよう時の関白に忠言しましたが、「院にこんなに深く愛されている私が、ご恩返しならともかく、どうして仇うちのようなことをできましょうか。」
玉藻の前の涙ながらの訴えに、関白もいつか泰成を疑う気持ちになり、「泰成の思い違いかもしれん、もう少し詳しく調べてみよう。」 玉藻の前は、すっかり安心し、前にも増して愛情こまやかな看病をつづけていました。
しかし、泰成は中国やインドの書籍を調べあげ、ついに九尾の狐の悪業をつきとめ、再び玉藻の前の追放に立ち上がったのです。
泰成が玉藻の前に立ち向かって祈りつづけると、逃れる術もないと悟った玉藻の前は、やがて美しい姿を失い、白面金毛九尾の狐の姿に変わり、「泰成、まさにわれは九尾の狐だ。もう少しで院の生血を吸いつくし、やがてこの世をわが手におさめて人の世を滅ぼそうとしたものを汝の法に破れたのは無念じゃ。」
祈りつづける泰成に背を向け、飛び去っていってしまいました。

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 その後、鳥羽院の病気は快方に向かい、飛び去った狐は、那須野ヶ原へ逃げ込み、人気のない那須野ヶ原では人間に化ける必要もなく、人里に出ては悪事を重ねていました。
これを知った朝廷では、関東でその名を知られた三浦介、上総介の両名を将軍とし、更に阿部泰成を参謀として妖狐退治の勅命を下しました。
両将は、八万余の軍勢を率いて須へ集結しました。
濃い霧が、人も馬も埋め尽くした夏が去り澄みきった秋空の下に、けむり吐く那須連山のもみじがいっそう色づいてきました。
三浦介、上総介、そして地元の軍勢を率いる那須の領主貞信、更には「降雨の術」という新たな封じ手を用いた泰成が、妖狐を求めて四十日。
汗と泥にまみれた軍勢は、那須温泉で疲れをいやし、ついにその日がやってきました。
「九尾の狐、現わる」の報は全軍に告げられ、谷の一角に追いつめた狐を、貞信が神から授かった鏑矢を抜き取り、すばやく射とめることができたのです。
「やったぞ!」  「やったぞ!」
八万余の軍勢と里人たちの喜びの声は、那須連山に大きく、大きく響きわたりました。

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 変幻自在の力をもって、アジア大陸を荒らしまわった九尾の狐は、死してなお毒石となって近づく人々や獣はもちろん、空飛ぶ鳥や近くの小川の魚までも猛毒を放って殺しつづけ、なお怒り狂っていました。
これを伝え聞いた那須境村の泉渓寺の住職、源翁和尚は、毒石の教化を使命として那須湯本に宿をとり、「晴れた、風のある日を選ぶがよい。」 との宿の主人の忠告を守り、行人の湯で身を清め、湯泉神社側から一気に石に迫ったのです。
毒石に近づいた源翁和尚は、吹きまくる風をものともせず、一心に大乗経をあげ続けました。
すると、石に変化が見えはじめ、石肌の露は次第に大粒となり、やがて蒸発すると見る間に、一筋の白煙が立ちのぼり、中からかつての玉藻の前そのままの姿が現れたのです。

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 やがて、その姿が消え、石は三つに割れて飛び散り、一つがここに残ったということです。
人々は、この石を「殺生石」と名付けました。
昭和三十二年、殺生石は栃木県の史跡として指定され、那須高原の発展とともに、今、多くの観光客に親しまれております。

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